『チャーチル ポストボックス缶』

※この物語はフィクションです。

 好きな反対は無関心という言葉がある。
 この言葉の意味が私、オリビアにはさっぱりわからなかった。
 正確には、意味はわかるけれど賛成はできない。
 いやいやだってどう考えても好きの反対は嫌いじゃない?
 みんなだってそう思うでしょ。
 好きという気持ちは心がポカポカと暖かくなる。
 いわばプラスの気持ちだ。
 嫌いという気持ちは心がイライラと寒くなる。
 いわばマイナスの気持ちだ。
 そして無関心。そこに心の振れ幅はない。
 いわばゼロの気持ちだ。
 だから好きの反対は嫌い。
 はい、証明完了。
 数学者どころか、学校の先生でさえ、こんな馬鹿丸出しで雑な証明を見たら怒るだろうけれど、実際そうなのだから仕方がない。
 そんな話をお母さんにしたら、あなたも大人になればわかるわよって言われた。小学生にはまだ早いって。
 大人って困ったら口癖のようにそういうからうんざりだ。
 まるで大人になれば全知にでもなれるかのように。
 あの日だって、お母さんとそしてお父さんは私の気持ちを知ったように勝手に決めつけた。

 窓にポンプ車で放水でもされているのかと思うほどの雨音に私は飛び起きた。
 二段ベッドの下にいる弟のオリバーもすでに起きていて部屋のスペイン窓の外を不安そうに眺めている。
 思えば、これは良くない事が起こる予兆だったのかもしれない。
 今日は土曜日だから学校がない。
 いつもならのんびりと寝ているところだけれど、怖くてそれどころではなくなってしまった。
 私たちは震える身を寄せ合ってリビングへ向かった。
 安心を得るために向かったそこで、さらに不安が加速することになるとは思ってもみなかった。
 出番を待ち遠しそうにしている暖炉も、真っ白で繊細なお皿を守る木製の棚も、カチカチと時を刻む大きな古時計も、いつも通りだった。
 リビング全体がいつも通りであれば、それこそ私たちは安心することができたに違いない。
 だけれど、リビングの一部。それも中心。
 そこだけがまるで、異世界、それが天国であればどれだけ良かっただろうかと思うけれど残念なことに地獄だ、から転移してきたのではないかと思えるほどに暗く重苦しい空気が漂っている。
 木製の、もうだいぶ年季の入ったテーブルで向い合せに座っているのは、私の大好きなお父さんとお母さん。
 いつも元気で溌剌とした二人は、しかし今は見る影もなかった。
 まるで地獄からやってきた悪魔に身体を乗っ取られてしまったかのように。
 私は、それが現実だと信じたくなくて一度ギュッと目を瞑る。
 だけれど身を寄せ合っているオリバーから感じる人肌の、いつもよりは冷たいけれど確かに感じるその温もりは、夢では決して再現できないもので、だからすぐに目を開けてしまった。
 でも。それでも。神様がいるならこれを夢にしてくれるんじゃないかって、縋るように再びリビングの中央に目を向けたけれど、やっぱりそこにはさっきと寸分違わないお父さんとお母さんがいた。
 私が現実を受け止めるのにお母さんが反応したわけではないだろうが、テーブル上にある一通の手紙に向けていた全てを諦めたように灰色で濁った瞳がこちらに向けられた。
 瞬間、これまでのことが嘘だったように温和な笑顔を私たちに向けた。
「あら、オリビアにオリバーじゃない。起きていたならそう言ってくれたら良かったのに」
 そのお母さんの言葉に連動して、お父さんの顔も被っていた仮面を外したかのように私たちに笑顔を向ける。
「おはよう。オリビア、オリバー。雨で起きちゃったのか? 怖かっただろ。そんなところに突っ立っていないで座ると良い」
 お父さんの笑顔も、お母さんの笑顔も一見すればいつも通りの笑顔に見えた。だけど、ほんの僅か、きっと親子でなければ気が付けないような、そんな些細な違和感が確かにあった。
 ポツポツと窓に打ち付ける雨音が私の鼓動と示し合わせているかのように激しくなる。
 ここで座ったらきっと良くない話を聞かされる。だから座ったらだめだ。
 そう私の直観は告げていたけれど、今まで両親の言葉に反抗などしたことがない、しようと思ったことすらない私は、やっぱり今回もお父さんの座ると良いという言葉に抗うことができなかった。
 それに今に限って言えば思考を放棄していたのかもしれない。
 考えれば考えるほどに嫌な想像をしてしまうから。
 従順にしていればとりあえずは何も考えなくて良い。
 加えてある意味ではこれは私のささやかな抵抗でもあった。
 いつも通りに私が振舞えば、きっといつも通り和やかで楽しい毎日がまたここから始まっていくと。
 お父さんと対面で座っていたお母さんは立ち上がり、お父さんの隣に移動する。
 そして私がお父さんの対面、オリバーがお母さんの対面にそれぞれ腰かける。
 いつも通りの私たちの食卓の配置だ。
 私とオリバーが着席するのを見届けると、お父さんが口を開く。
「今日は二人に素晴らしい報告があるんだ」
 素晴らしい……ね。
 それは誰にとって素晴らしいんだろうか?
 私? オリバー? お父さん? お母さん? それとも……。
「父さんな、徴兵されて、今度の戦争に参加することになった」
 ピクニックにでも行くかのように、それはあまりにも気軽に発せられた言葉で、もしかしたらそれは私の聞き間違えであるのではないかと思った。
 それに、戦争なんて物騒な言葉はこのお父さんの笑顔に似合わない。
 でも、だけど、残念なことに、お父さんたちが私たちの存在に気が付くまでに形成していた空気にはどうしようもなく、それがマッチしてしまっていた。
「お父さん、国の為に戦うのよ。素晴らしいことじゃない」
 お父さんをフォローするようにお母さんも笑顔で続く。
 パキッ。
「国の為って……。お父さんはお家にいるよりも国の為に戦うほうが大事なの?」
「そんなことないさ。国の為に戦うことが延いてはオリビアたちを守ることになるんだから」
 パキパキッ。
「そうよ。オリビア。それにお父さんが戦争にいくだけで、わが家にたくさんのお金だって入るの」
 パキパキパキッ。
「そうだった。そうだった。今度お母さんとオリビアとオリバー三人で美味しいステーキでも食べるといい」
 パキンッ。
「そんなこと、私は望んでない……」
「ん? なんだってオリビア?」
「そんなこと! 私は望んでない!」
 ガタッと椅子が倒れるくらいに勢いよく立ち上がると、私はお父さんの腕を引っ張る。
「逃げようよ! 今すぐ!」
 しかし圧倒的な体格差があるお父さんを全く動かすことができない。
「落ち着きなさい、オリビア。逃げると言ったってこの国に逃げ場所なんてないよ。それに名誉あることから逃げる必要なんてないだろう」
「良いから、逃げるったら、逃げるの! この国がダメなら他の国に亡命すればいい!」
「無茶言わないの、オリビア。それに逃げてどうするの。逃げたら家も仕事もなにもかもなくなってしまうでしょう」
「いいよ! それでも! 私は、私は、なんにもなくても、家族さえ居てくれれば、それで、それだけで良いの!」
 これはたしかに子供のわがままなのだろう。きっと私が想像する以上に逃げるという選択をすることは、地獄のように辛い毎日が待っているはずだ。
 でも。お父さんが行ってしまうことは、それもまた地獄のような毎日になることは明白だ。
 同じ地獄ならば、私はお父さんと一緒の地獄を選びたい。
「いいわけないだろう。オリビアにはまだこれから無限の未来があるんだ。学校に行って、自分の好きなことを見つけて、そうしてやりたい仕事を見つけて、いつかは運命の人と結婚する。逃げるっていうのはそんな夢や希望さえも捨ててしまうことになるんだぞ」
「たしかにそうなのかもしれない! でもそれは今ある幸せを捨てて良い理由にはならない! だって、未来は今の幸せの先にあるんだから!」
 瞬間、私の叫びにビックリするように電灯がパチパチと点滅し、食器棚のガラスがガタガタと震える。
 今まで両親に対して見せたことがないような私の反応にお父さんは面食らったような顔をしたけれど、すぐにいつも通りの冷静な顔に戻る。
「オリビア、わかってくれ。確かに逃げるというのも一つの手なのかもしれない。だけど、たとえ逃げたところで、逃げ切れるという保証なんてどこにもないんだ。もしも掴まってしまえば、どちらにしたって家族は分断されてしまうことになる」
「じゃあ、じゃあさ、戦争にいったお父さんの命は誰が保証してくれるっていうの? どんなに辛い現実があったとしても、生きてさえいてさえくれれば、また会うことができる!」
「なら父さんの命は父さん自身が保証しよう。大丈夫だ。必ず生きて帰ってくる」
「そんなの! 信じられるわけないじゃない!」
 もうすぐ、この国が戦争を始めることは知っている。そしてそれがこの国始まって以来の一番大きな戦争になるであろうことも。だからこそ、軍人ではないお父さんも駆り出されることになった。
 でも、一般人がそんな爆弾と銃弾が降りしきる戦場に赴いて平気なはずがない。歴戦の戦士でさえもいつ命を落としても不思議ではない、そんな本物の地獄が生ぬるく思えるくらいのこの世の地獄に。
「そ、そうだ。とりあえず、ご飯にしましょうよ。オリビアも落ち着いて、ね?」
 なんとかこの場を収めようとお母さんが助け船を出す。
 でも、落ち着いたとこで意味なんてない。議論は平行線で、平行になってしまった以上、もう交わることなんてありえないのだから。どちらかが、ポッキリと折れてしまわない限り。
 お母さんが出した船は私とお父さんを繋ぐ架け橋になることなんてなく、あえなく沈没する。
「ご飯、要らない」
 私は走り出した。
「オリビア、待ちなさい!」
 お父さんの声が背中から聞こえる。でも、私はそれに応えることなく、自分の部屋へと直行した。
 それが私の聞いたお父さんの最後の、いや、きっと最期の声だった。

 その日の翌朝、日曜日、結局お父さんは家を出て行った。
 どうすればよかったのだろう。
 もっと駄々をこねれば良かったのか。
 もっとお父さんに付きまとってその腕にガッチリと掴まり続けていれば良かったのか。
 もっと冷静に毅然と振舞えば良かったのか。
 いくら考えても答えなんて出なかった。
 無力感が私を苛む。
 きっと初めから私ではどうすることもできなかったのだろう。
 いつも私とオリバーの幸せを願っていてくれているお父さんなら、私の一番の願い事を聞いてくれると思った。
 だから私は、私を縛り付けていた鎖を破壊して、初めてお父さんに口答えをした。
 でも、私の一番の願いを叶えてくれはしなかった。
 やっぱり子供の気持ちを知ったように勝手に決めつけてしまう大人なんて、お父さんなんて、大嫌いだ。

 次の日の月曜日、私は、お父さんが地獄へと行くとともに魂でも取られてしまったのか、放心状態で学校へと向かう。
 学校ではクラスメイトが、自分の父親が戦場に行って格好良いだの、将来は自分もこの国のために戦争に行きたいだの、そんな話題で盛り上がっていた。
 誰もお父さんが行ってしまったことを悲しむことはなく、それどころか誇りに思っていた。
 先生たちも戦場に行く戦士たちを素晴らしい、勇敢だ、と褒め称える。
 この国に住む全ての人間が狂っている。一種の病気なのではないかとすら思えてくる。
 そのパンデミックが起きているともいえるこの国で唯一難を逃れているのは、きっと私だけだ。
 放っておけば私もいつかこの病気にかかってしまうのではないだろうか。
 そう思うと同じ空間で呼吸をすることすら気持ちが悪くなって私は、ケホケホと咳き込んでしまう。
 怖かった。人が死にに行くことを応援しているこの人たちが。
「オリビア、大丈夫?」
 クラスメイトの一人が心配して近づいてくる。
「やめて!」
 しかし私はその差し出された手をパチンと払いのけた。
 一瞬だけ触れたその手は血が通っていないと思うくらいに酷く冷たかった。
「みんなおかしいよ! どうして、どうしてお父さんが行っちゃったのに、そんなに平気そうなの!」
 私の問いかけに、教室はシンとなる。
 冷たいのは差し出された手だけじゃなく、空気も凍てつくくらいに寒々しい。
 教室中から私に異物を見るような、悪魔を見るような、そんな視線が送られる。
 私がさっきまでクラスメイトに向けていた視線が何十倍にもして返ってきた。
 針山に放り込まれたようにその視線は私の身体を串刺しにする。
 おかしいのはお前の方だ。
 非国民だ。
 敵国のスパイだ。
 誰も言葉にはしていないはずなのに、数十の私を蔑む言葉が不快に重なり合って聞こえる。
 耳を強く塞ぐけれど脳に直接響くそれに対して何の意味もなかった。
 私は耐え切れなくなって、この後まだ授業があることなんてお構いなしに教室を出て行った。

 バウワウ! ウーフ。
 ウチのペットであるミニチュアシュナウザーのアルフィーが吠える声に私は目覚める。
 枕がひんやりと濡れていて、私は泣き疲れて寝てしまったのだろう。
 窓の外を見ると、白いことがアイデンティティの雲が無理やりオレンジに染め上げられていた。
 お昼寝にしたって長すぎるくらいに私は眠ってしまったようだ。
 考えてみれば土曜も日曜の夜もほとんど眠れなかったから、そのしわ寄せが来たのかもしれない。
 私は吸い寄せられるように窓の傍まで歩み寄る。
 相変わらずアルフィーはバウワウと夕日に向かって吠えていた。
 それは映画のワンシーンみたいで、どうしようもなく寂し気に見えた。
 道路には、今まさに私の部屋にほっぽってあるのと同じようなランドセルを背負った子たちが手を豆鉄砲に見立ててバキュンバキュン言いながら楽しそうに帰路に就いている。
 初めて学校を無断で休んでしまった事実に胸がチクりと痛んだけれど、それよりもお父さんと言い争いをしているときの方が何倍も、何十倍も胸がチクチクと痛んでいた。
 だからそれと比べてしまえばこれくらいどうということもなかった。
 なんだか親に口答えすることに始まり、着々と悪い子になる道を進んでしまっているような気もするけれど、別に良いか。
 だって、悪い事をしたらいつも叱ってくれた人はもういなくなってしまったんだから。
 親が子を叱るのは愛ゆえだと聞いたことがある。
 つまり叱ることを放棄したお父さんには、もう私に対する愛なんてないのと同然だ。
 私は空を飛ぶ一羽の鳥に手を伸ばした。
 それはこの家に繋がれているアルフィーや、この国に縛られている私と比べてあまりにも自由で、自分の翼でどこまでも、どこまでも飛んでいくことができる。
 私にも翼があれば変わっただろうかと考え、すぐにやめる。
 ないものに思いを馳せたところでどうしようもないのだから。
 鳥を見ていられなくなった私の視線は自然と地面の方を向く。
 すると、弟のオリバーが息も絶え絶えで家に入っていくのが見えた。
 内気で活発とは言えない弟が、全速力で走るところなど運動会ですら見たことがなかったから、私は驚く。
 ガチャっと玄関を開ける音が聞こえたかと思うと、タッタッタッと廊下を走り、ドタドタドタと階段を駆け上がる音が聞こえる。
 驚いたのはほんの一瞬だけで、すぐにそれは不安へと姿を変える。
 私はオリバーの足音に合わせて上がる心拍数をどうにか抑えようと深呼吸を一つしたところで、バタンと勢いよく部屋のドアが開かれた。
 大雨の中で走ってきたのかと思うくらいに汗びっしょりのオリバーは、膝に手を当て肩で息をする。
 そうして息を整えるのに数秒を要した後、ようやくオリバーは口を開いた。
「アメリアちゃんが……」
 アメリアは私の親友だ。
 そういえば今日は動揺しすぎて声をかけなかったな。
 というかそもそも居たかな……?
 教室に誰が居たのか覚えていないくらいに、私は精神的に追い詰められていたってことなのだろう。
「アメリアがどうしたの?」
 私とオリバーはよくアメリアと三人で遊んだ。
 口数が少ないオリバーと、マシンガンもびっくりするくらいによくしゃべるアメリアと、そして聞き役にも話し役にも臨機応変に立ち回ることのできる私との相性は運命的に抜群だった。
 もしかしたら、アメリアなら私の気持ちをわかってくれるんじゃないだろうか。
 そう思ったら会いたくなってきた。
「アメリアちゃんが、殺された」
 ガン、とハンマーで頭をぶん殴られたような衝撃が私を襲う。
 びっくりして頭を抑えるけれど、そこには血はおろか傷なんて何ひとつ付いてはいなかった。
 だけれど、頭は、今まで感じたことがないくらいにガンガンと喚いて、痛かった。
 今聞いたことを頭から追い出すように内側から痛みが爆発する。
 もうこれ以上なにかを聞くことを拒絶するために大きな耳鳴りがする。
 そんな痛みに対する身体の自己防衛本能だろうか。私は気を失いそうになりふらふらと膝から崩れ落ちる。
 でも私が床に倒れてしまう前にオリバーが咄嗟に私の身体を支えた。
「オリバー、言っても良い冗談と言っちゃいけない冗談があるんだよ」
 私はそう言った直後に、しかしそれは冗談なんかではないとわかった。
 なぜならば、私を優しく支えてくれているオリバーの腕が震えていたから。
 近くにあるオリバーの顔を見やれば、その唇は大きく歪んでいた。
「ごめん、オリバー。嘘じゃ、ないんだね……」
 コクリとオリバーは頷いた。
 そもそも、私にとってだけではなくて、オリバーにとっても、アメリアは大切な、大切な存在で、だから間違ってもそんな冗談を言うはずなんてなかったんだ。
 オリバーは口数は少ないけれど、それは相手に興味がないのではなく、言葉は時に刃物にもなると知っていて、だからいつも慎重に言葉を選んでいるのだ。
 本当に優しい子だ。
 そんなことを考えられなくなるくらいに私の思考力は低下していたということだろう。
 ということはもしかしたら、私がお父さんに言い放った言葉ももしかしたら……。
 そしてそれを裏付けるように決定的な言葉をオリバーの口から告げられる。
「アメリアちゃんの家族は、逃げ出したんだ。お父さんが徴兵されたから」
 ポタリ、ポタリと私の肩に大粒のシミができる。
 口を強く引き結ぶことで耐えていたダムは、口を開くと同時に決壊してしまったようだ。
 そんなオリバーを見て姉として私が慰めなければいけないと、そう思ったけれど、すぐに私にはそんな資格なんてないと思い直す。
 家族に逃げようと提案して、そうしてお父さんと喧嘩して、あろうことかそこから一言も口を利かずに喧嘩別れをした私には。
「ごめん、オリバー」
 私はオリバーの肩に手を置き、引きはがすように距離を置いた。
「おねーちゃん?」
 オリバーの美しいラピスラズリのようだった瞳は赤く染まっており、涙で潤んで湖のようになっている表面に私を映す。
 それはまるで犯罪者に向けられるカメラのレンズに映る私で、罪悪感に耐え切れなくなった私はその場から戸惑うオリバーを置いて逃げ出した。
 私はお父さんに、アメリアに会いたくて走る。
 そんなことは叶わないとわかっていたけれど、それでもどこかに向かって走れば会えるんじゃないかって。
 そんなことを考えてしまっている時点で私はやっぱり冷静じゃなくて、でも、そうと自覚していても、止まってしまったらその背中がもっと遠ざかってしまうような気がして。
 途中で足をつっかえて、転んで、立ち上がってはまた転んだ。
 それでも、私は走った。
 走って、走って、走りぬいたその先に私の絶望を、罪を、洗い流してくれる希望があると信じて。
 人目も憚らず、声をあげて走った。
 お父さんは初めからわかっていたんだ。
 逃げたらどうなるかなんてこと。
 だから私の言うことを聞かなかった。
 馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。
 私は大馬鹿だった。
 過去に戻ってやり直したいと、これほどまでに願ったことはない。
 戻ったところで、私は戦争に行くお父さんを祝福することはできないけれど、せめて、頑張れって、絶対に帰ってきてねって、大好きって、そう言って送り出すことはできる。
 ドン。パラパラパラ。
 突如、私の身体は勢いよくはじき返され仰向けに転んだ。
 顔は涙でぐちゃぐちゃになっていて、視界はぼやけてしまっているのにも関わらず無我夢中で走っていたから、私は曲がり角に人がいることに気が付かなかった。
「ご、ごめんなさい」
 私は袖で乱暴に涙を拭って視界を回復させると、目の前には散乱した手紙。
「お、お父さ」
「お嬢さん、大丈夫かい?」
 そして手を差し伸べてくれていたのは、奇跡的に戻ってきたお父さん……ではなく郵便局員のおじさんだった。
「あ、ありがとう、ございます」
 私はおじさんの手を取り、何度も転んだせいで悲鳴をあげている膝の痛みに耐えながらなんとか立ち上がる。
「気をつけるんだよ」
 おじさんは私の頭を優しく撫でると散らばってしまった手紙を集める。
「あ、すみません。私も、拾います」
 悪いのはぶつかってしまった私なのに、おじさんはにこやかにありがとね、と返事をする。
 おじさんは落ちてしまった手紙を丁寧に一枚一枚ハンカチで拭いては大切な宝物のようにカバンへと収めていく。
「どうしたんだい?」
 まじまじとその所作を眺めてしまっていた私の視線に気が付いたおじさんがその手を止めて私に問いかける。
「いや、その、随分と丁重に手紙を取り扱っているなって」
 それはお客さんの物だから当たり前のようにも思えるけれど、私は郵便局員がポストから手紙を出すときに乱雑にカバンに放り込む様子も、投げ込むように郵便受けに配達しているところも見たことがあった。
 うちに届く封筒も偶に端っこが少しだけ折れていたりしたこともあったけれど、私自身も所詮は紙切れだからと、それに対して特に思うことはなかった。
 でも、このおじさんはまるで我が子のように手紙に愛を持っているように感じた。それも自分宛てならまだしも全ての手紙に、だ。
「ああ、確かに、今日日そういった人は珍しいかもしれないね」
 おじさんは手に持っている手紙を慈しむように眺める。
「じゃあ、どうしておじさんは?」
「昔はね。私みたいな人は多かったんだよ。でもね、時は流れ、科学は発達し、まだそこまで普及はしていないけれど離れていたってお話しできる電話というものも生まれた。最早今の若い子にとっては手紙なんていうのは古臭いもの、と思えるかもしれない。これからもっともっと世の中は発展して、わざわざ手紙を出す必要性はどんどん薄れていくだろう」
 廃れていく手紙のようにゆっくりと沈みゆく夕日を眺めながらおじさんは話を続ける。
「でもね。それでも。手紙には、決して電子では表すことのできないような想いが宿っているんだよ」
「想い?」
 コクリとおじさんは頷く。
「普段は言えないようなことでも、手紙でなら、手紙でしか伝えられないような、そんな想いがそこには詰まっている。そういう想いを届けるこの仕事に私は誇りを持っているんだ。きっと何年経とうが、いくら科学技術が進歩しようが、手紙という文化が完全になくなってしまうことはないだろう」
「そう、なんだ」
 なんだかフワッとしていてわかったような、わからないような、そんな感じだ。
 でも、少なくとも決して雑に扱って良いものではないということは理解できた。
「ちょっと難しかったかな」
 おじさんは苦笑して、手紙を拾う手を再開させる。私もそれに倣いさっきよりも一枚一枚大切に手紙を拾い集めた。
 散らばった手紙の数は多かったけれど、二人でやればものの数分で片付く。
 おじさんが最後の一枚に手を伸ばしたとき。
「あっ! それ!」
 ピタリとおじさんの手が止まった。私はその手紙の下まで駆け寄って、拾いあげる。
「どうしたんだい?」
「やっぱり、これ、お父さんからうちに宛てた手紙だ……」
 毎日のように見ている字だから、遠くからでもわかった。
 もの凄くキレイな字というわけではないけれど、どこか優しさが感じられるその字に、手紙には想いが宿るという言葉の意味が少しだけわかったような気がした。
 私はそれを開けようと封に手をかけた瞬間ドクンと心臓が脈打つ。
 果たして私がこれを読んで良いのだろうか?
 喧嘩、とも言えない私の一方的な感情で突き放してしまったお父さんの、手紙を。
 もしかしたら、あんな娘はもう、うちの子共ではないと、そう思っているかもしれない。
 するとおじさんは封に手をかけたまま固まってしまった私の手を包み込む。
 その手に宿るたくさんの想いが私の手にも流れ込み、その温かな想いが凍りついた私の手を穏やかに解かしていく。
 そうだ。たとえお父さんが私のことを嫌いになって、ここに我儘な娘に対する不平不満が書かれていようとも、私にはそれを受け止めなければならない義務がある。
「ありがとう。おじさん」
 おじさんは我が子に向けるような微笑みを私に向けると、そっと手を放す。
 私は丁寧に封を開けると、中には三枚の手紙が入っていた。
 一枚はお母さん宛て。もう一枚はオリバー宛て。そうしてもう一枚は、オリビア、他でもない私宛てだった。
 お母さんとオリバーのものを封筒の中にしまう。
 私は一つ大きな深呼吸をして覚悟を決めると、その手紙の内容に目を通した。
『親愛なるオリビアへ』
 ポタリと手紙に雫が一粒落ちた。
 まだ一言目なのに私の涙腺は壊れた。
 あんなことがあったのに、私に親しみと愛情を感じてくれていることがなによりも、なによりも嬉しかった。
 私は涙がこれ以上垂れて手紙がぐしょぐしょになってしまわないように顔の高さまで手紙を上げた。
『まず初めに謝らせて欲しい。』
 謝りたいのはこっちの方だよ……。
『父さんは一緒に居て欲しいというオリビアの願いを叶えてあげることができなかった。』
 そんなの何もわかっていない私の愚かな戯言だよ。お父さんが気にすることじゃない。
『本当は嬉しかったんだ。オリビアがそういう風に言ってくれたことが。それはもう今にも飛び上がりそうなくらいにね。』
 あの時そんな感情をおくびにもださずに、冷静に私のことを宥めなければならなかったお父さんの気持ちは私には想像も付かない苦しみだったはずだ。
『でも。だからこそだ。そんな風に父さんに生きる喜びを与えてくれたからこそ、絶対にこの命を守らなければいけないと、そう思った。』
 まだ全然疲れていないはずなのに、プルプルと腕が震える。
『オリビアはお母さんに似てとっても優しい子だから、もしかしたら自分のことを責めてしまっているかもしれない。』
 私のことなんてお父さんにはお見通しみたいだ。
『だけど全然そんなこと思う必要なんてないということをわかっておいて欲しい。父さんは戦争なんてするこの国も世界も馬鹿げているとそう思うから。それに自分を責めてしまうのは、オリビアがとっても優しいということの裏返し、なのだから。』
 ああ。この国は狂っていると思っているのは私だけじゃなくて、ちゃんと味方がいたんだ。
 今一番掛けて欲しかった言葉を掛けてくれるこの人は、やっぱり私の大好きなお父さんなんだって、そう思った。
『今まで父さんに反対することがなかったオリビアが自分の意見を、気持ちを言ってくれたことはとても驚いたけれど、同時にオリビアもいつまでも子供じゃなくて成長しているんだと実感することもできた。きっとオリビアはこれからもっともっと成長していって、いつか立派な大人の女性になっていくんだと確信できたから、絶望しか落ちていない戦場に夢と希望を抱えて向かうことができるよ。ありがとう。』
 視界がぼやけて文字が何重にも見えるから私はゴシゴシと涙を拭う。
 でも袖を放した瞬間に視界はすぐにぼやけ、やがて袖は一粒の涙も吸収できないくらいにびしょびしょになった。
 ありがとうと、お礼を言いたいのは私の方なんだよ。
 こんなにも私のことを想ってくれているお父さんと離れ離れにならなければいけないなんて、世界はどうしてこうも理不尽なのだろう。
『そして、そんな成長したオリビアをこれからも近くで見守っていたいから明後日から赴く戦場から絶対に帰ってくると誓おう。』
 誓う、という文字の力強さにお父さんの執念のようなものが感じられた。
 そこにお父さんはいないのに目の前で語り掛けてくれているように感じた。
 あのときにはその場を誤魔化すための見栄にしか聞こえなかった「帰ってくる」という言葉が、今は信じよう、信じなければいけないって、そう思った。
 だって私が信じなかったら誰がそれを信じるというのだろうか。
 私はもう立っているのも限界なくらいに涙も鼻水も止まらなくて、せっかく綺麗に残しておこうとした手紙に力が入ってしまう手を抑えることができずに、持っているところがぐしゃぐしゃになってしまう。
 人ってこんなに涙を流せるということをこのときに初めて知った。
 目は痛いし、身体は水分不足だし、頭はキリキリとする。
 このままここで座りこんでしまいたかったけれど、そうも言っていられなくなった。
 私は自分のほっぺたをバチンと三回叩いた。
「おじさん!」
 それまでお父さんの代わりのように見守ってくれていたおじさんに私は声をかける。
「どうしたんだい?」
 私はしゃくりあげそうになる声を抑えるためにも、大きな声をだす。
「手紙、今日出したら明後日までに届く?」
 そんなやかましい私におじさんは嫌な顔ひとつせずに応えてくれた。
 戦場に行ってしまう明後日までに絶対に間に合わせなければならない。
 まだいってらっしゃいも言っていないのだから。
「そうだね。今日出せば間に合うけれど……」
 おじさんはポケットから年季の入った懐中時計を取り出す。
「今日の集荷の最終は十七時四十五分で、あと十分しか時間が……」
 私はおじさんが言い終える前にもう踵を返し、走り出していた。
 間に合うんだろうか、なんて迷っている時間は一秒たりとも存在しない。
 ありがとう、と振り向いた私におじさんは手を挙げて応えてくれたのを見届けてからは、わき目もふらずに走った。
 さっきまで痛いと思っていた膝の痛みはもう感じなかったし、私の足は車にでも引っ張られているかと思うくらいに速く動いてくれた。
 あっという間に家に着く。とはいえ時間はもう五分を切っていた。行きは二十分くらいかけて到達した場所からそれだけタイムを縮めたことを考えれば、我ながら驚異的だと思うけれど、それでも時間がないということに変わりはなかった。
 家の前にはオリバーとペットのアルフィーが心配そうに私を待っていた。
「おねーちゃん……」
「オリバー! 詳しい話はあとにして、今はとにかく急いでお父さんに手紙を書こう!」
 オリバーが困惑した顔を浮かべたのはほんの一瞬ですぐに、うん! と了承して私と分担して、手紙と封筒とペンと切手と糊を集めた。
 時間がないから私はたったの一行にありったけの想いを込めた。
 弟も私に倣い一行だけ書いたのを見届けると、即座に封をして一番近いポストへと走りだす。
 弟と、そしてその後ろにアルフィーも付いてくる。
 間に合え。間に合え。間に合え。
 今はただそれだけを考えて走った。
 普段なら体力なんてとっくに底をついているはずなのに、内側から力が沸きあがってくる。
 二人と一匹の慌ただしい足音が道路を走る車の音に溶けていく。
 景色は目まぐるしく変わっていって、今走っている場所がどこなのかわからなくなりそうだけれど、わずかに顔をだす夕日が私の道標となった。
 この夕日を今は遠くにいるお父さんも見ているのだろうか。
 きっと見ているんだろうなって根拠もなくそう感じた。
 無限に生まれてくると思っていた体力はそれでもやっぱり無限じゃなくて、もうこれ以上は走れない、そう思ったときにポストを数メートル先の視界に捉える。
 そして、若い郵便局員がポストから手紙を出し終えているところも。
「待って!」
 私とオリバーは精一杯の声でそう叫んだけれど、車のクラクションの音に無情にもかき消される。
 そうしてもう一度声を出そうとした瞬間には、早く仕事を終えて帰りたいからか素早い動きで、既に自転車に跨っていた。
「待っ……」
 ガッ。バタン。
 私は、これほどまでに自分のどんくささを呪ったことはない。
 よりにもよって、運動会のかけっこよりも、リレーでアンカーを走っているときよりも転んではいけない場面で私は盛大に転んでしまった。
「あ……あ……」
 そんな私に気が付くはずもなく、郵便局員の人はサーっと自転車を走らせてしまった。
 声にならない声をあげ私は手を伸ばすけれど、その背中は遠ざかるばかりでやがて見えなくなる。
 オリバーとアルフィーも走って追いかけてくれたけれど、元々足が遅いうえに自転車の速度に追いつけるはずもなく、やがて諦めて立ち止まってしまった。
 結局私は何もできなかった。
 ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 そんな届くはずもない言葉を私は空に向かって叫んだ。
 消えそうになりなりながらも必死に世界をオレンジ色に照らしてくれた夕日は完全に沈み、それは私の心の中の炎が消えしてしまう合図でもあった。
 なんでもっと早くお父さんの手紙に気付くことができなかったんだ。
 なんでもっと速く走ることができなかったんだ。
 なんでもっと大きな声で待ってと叫ぶことができなかったんだ。
 私がもっと本気で、死ぬ気で、命を燃やして、どれか一つでも、もう少し頑張れていれば、この手紙は届いていたんじゃないのか。
 大きすぎる後悔が私の身体を蝕む。
 一度止まった涙はまたあふれ出し、手から零れ落ちた手紙を拾う気力すら、もうなかった。
 そもそも、届かない手紙なんてただの紙切れだ。
 拾う必要すらない。
 でも、このままここに置いておくよりは、いっそなかったことにした方がいい。
 私は徐に手紙を掴み取り、そうして力いっぱい引きちぎろうとしたその時、曲がり角からその人は現れた。
「おじ……さん」
 真っ暗になった景色の中でおじさんの周りだけは輝いていて、それはさながらピンチのときに現れるヒーローのように私の心を照らしてくれた。
 こんな年寄りがヒーロー? なんて他の人には笑われそうなくらいに、創作上のヒーローとはかけ離れていたけれど、誰がなんて言おうが私にはそう映った。
 すんでのところで手紙を破くのを止めた私はポストの前で待つおじさんの下まで駆け寄る。
「いやー、念のためと思って来て良かったよ」
 そうやって冷静さを装っているおじさんの額にはたしかに汗がにじんでいて、急いで来てくれたんだということがわかった。
「ありがとう、ございます!」
 膝立ちで私の背の高さに合わせて手を差し出してくれているおじさんに、私は最後にもう一度想いをのせて手渡した。
 ちょっと転んだ拍子に少し汚れて、クシャってなってしまった手紙だけれど、想いまでは汚れることなく、壊れてしまうこともなく、そこにあり続けた。
「うん、確かに預かったよ。絶対に届けるからね」
 私はやっぱりまた泣いてしまった。
 なんだか今日は本当に泣き虫だ。
 でも今は悲しさじゃなくて、安堵の涙だった。
「それじゃあ、急いで届けなくちゃいけないから、もう行くね」
 おじさんは私の頭を撫でるとすぐに去っていった。
 私はその背中が見えなくなっても声が枯れて喉が潰れてしまっても、ありがとうと叫び続けた。

 好きの反対は無関心という言葉がある。
 私はこの言葉の意味がわからなかった。
 好きの反対は嫌いだと思っていたから。
 でも、今ならわかる。
 コインの表と裏が決して同時に出ることがないように、もしも好きと嫌いが反対であるならばその気持ちが同居するなんてことはあり得ない。
 そのあり得ないと思っていたことが起きたら、私の証明は間違っていたと言うしかないでしょ。
 私は、私のお願いを聞いてくれなかったお父さんが大嫌いだったけれど、それ以上に、私は私のことを大切に想ってくれているお父さんのことが大好きだったのだから。

〈オリビア〉

〈オリバー〉

〈アルフィー〉

〈郵便局員のおじさん〉

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